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2014年11月26日水曜日

2013年1月22日火曜日

引き算で、引き寄せる!満たすのは自己愛だけでいい。

前回の記事の通り、来月妻と世界一周(某船旅ではありません)に旅立ちます。
それを決意してからのこの半年間、様々な気付きや学びを頂きました。

今回の記事はタイトルの通り、

いかに手放し(引き算し)て、自他ともに栄え続ける循環(引き寄せ)に乗るかという事です。

ひとえに引き算といっても、引き寄せる(循環する)引き算は2種類あります。

1.物理面での引き算(目に見えるもの→ヒトモノカネ情報etc)
2.精神面での引き算(目に見えないもの→自他に対する情、思い込みetc)

そして一番大切な事は、

「満たすもの(足すもの)は、自己愛(全てオールオッケー!)だけ」

そこに尽きます。

引き算って何かというと部屋を片付けた時の爽快感ありますよね。
特にモノを捨てて、スッキリする感覚。
あれを人生単位でやっていこうというものです。

本当に清々しく気持ちいいのです。

欠乏感や恐怖、虚栄心から来る足し算の人生を繰り返して一時的に満たされたとしても、結局はもっと大きい欠乏感や恐怖心、虚栄心に振り回され続けます。
僕はずっとそれをやっていましたし、一時的な満たされ感は次に更なる不安を駆り立てます。
スタート地点がゴール地点なので、それを絶えず繰り返すのです。

色々なものを持っている人、それは一見外から見たら羨ましく見えます。
しかし、持っている事への執着、失う怖さや虚栄心から来る数々の思考や情に振り回されて大切な「今」を見失い、消耗していることが多いです。

だったら本当に大切なもの以外手放してしまえばいい。
まず物理的に、次に精神的に。

何故、物理的にからなのかというと、
人生において精神的な執着なく自己愛を満たせているなら、
この話は既に体感としてわかっているからです。

結果的に僕自身は最も物理的であり、精神的なものを手放し(引き算し)ました。

それは「会社に勤める仕事」を手放した(引き算した)ことです。

前職は僕の虚栄心や安心感を十分に満たしてくれる環境でした。
やりがいがあり面白い、ありがたいことにいい人たちにも恵まれている。

それを辞めて妻と世界一周する、出発までの間にずっとしたかった事をする。
そのワクワクに、仕事を辞める恐怖心や今後についての思考の計算は敵いませんでした。

一番の恩恵は「今」を感じやすくなったことです。
すなわち、人生においてより「くつろげる」ようになった事です。

僕の場合、会社勤めをしていると常にその仕事の事が頭によぎります。
妻とご飯を食べていても、ふとした瞬間に仕事に頭が支配されています。
もう料理の味なんてわからないし、顔は険しく、無意識に深呼吸をしている。
しかも妻に指摘されてそれに気付く。

もちろん嬉しいことも沢山ありましたが、心が乱れる事も多々ありました。
基本的には仕事の成否が自分の精神状況を決めるという状態だったのです。

人生の主権は自分になく、制御出来ない暴れ馬にただ振り落とされないように必死でしがみついているような感覚が常にありました。

乗り越えればいい!という人もいるでしょう。
その都度何度も乗り越えましたが、やはり次の「波」が来る。
そのゲームにはきりがないわけです。

そんな中、僕は下記の問いに出会い、脳天に稲妻が落ちました。

「もし世界中のお金、人脈、時間、健康など全てを持っていたら、あなたは今から何をしますか?」

この質問を自身に問いかけた事が、一番の変換点でした。
僕にとってのそれは、当時の仕事ではなかったのです。

人生の全てのエネルギーと時間を何に費やしたいのか?

その答えがこのブログに書いてある事であり、僕の生き方そのものです。
結果として今、全て整っています。
そして、これからもそうであると確信しています。

そう、この質問に対する答えを実行することで人生の主権が「自分以外の何か」から「自分自身」にスイッチします。

今を感じ、ねばならいを手放して、その時にしたいことをする(出来る)生き方のスタートです。

その上で、一番肝心な「今」を感じること(くつろぐこと)を妨害している「物理的な何か」を自分から手放す(人生から引き算する)ことによってそれに伴う思考は存在しなくなります。

「考えなければならないこと」が減ると「感じること(くつろぐこと)」が増えます。

空いたスペースに喜び事を入れると、どんどん喜び事がやってくる。
単純な話です。

お金は、お金が沢山あるところに集まるように、苦しみは、苦しみが、喜びは、喜びが沢山あるところに集まります。

気付かぬ内に囲まれていた不要なものを手放してみましょう。

いわゆる断捨離です。
人生単位での。

ものだけでない、人間関係やそれにまつわる”情”もそれです。
この”情”を手放すことが精神面の引き算です。

モノはある意味手放しやすいですが、それにまつわる”情”が人間をがんじがらめにしています。

特に”情”は「ねばならない」が強いですね。

”情”とは、つまるところ損得勘定です。
こうしなければ相手に嫌な思いをさせるのではないか?
こうした方が自分がいい印象を与えられるのではないか?
怖れや不安からスタートしているもの。

”愛”とは正反対のものです。
ここで言う”愛”とは、全てに対する「信頼」です。

自他への信頼があるからこそ、手放せる。
”情”での繋がりなどなくても、相手への、そして自分への心からの信頼があれば何も恐れる必要はない。

怖いですか?
当然です。
僕が今書いている事は、世間一般の通念とは真逆のアプローチです。
去年の今頃の僕がこれを読んだとしても、怖くて実行なんて出来なかったでしょう。

一度、今まで読んで頂いたことを頭(思考や情)でなく、感じてみて下さい。

もしそんな事が出来たなら本当にワクワクすると少しでも感じたなら読み進めて下さい。
ワクワクは未来(次の今)の自分からの招待状です。

体験、体感したことだけがその人を創ります。
ここから先は僕自身の体験であり、体感です。
僕が実際に行なったアプローチ手順です。

僕は自分が実行して、体験出来たことしか伝えることが出来ません。

そして、僕が出来たということは誰にでも出来るということです。


続けます。


手始めに身近なモノから手放していって、その爽快感を感じて下さい。
その爽快感に従ってどんどん手放して下さい。

世界中のお金やモノ全て自分のものだったとたら、
その上で何を手元に置いていると自分は一番ワクワクするのか?

まずはそれを行なって頂きたい。
それ以外は手放していく。
すると手放して空いたスペースにワクワクする何かがやってきます。
ワクワクするものだけを置いていると、必ずやって来ます。

しかも思考では到底イメージ出来ない、角度やタイミングで喜びのギフトとしてやってきます。

モノかもしれません、お金かもしれません、人かもしれません、情報かもしれません、健康かもしれません、喜びの言葉かもしれません。

あなたにとって一番必要な「何か」が訪れます。
お楽しみに。

その体験が出来たなら、あなたはもう循環の流れに乗っています。
あとはその流れを大きくするも、小さくするも、速くするも全てあなた次第です。
何でもOKです。

次に精神面の引き算です。
あらゆる情を手放してください。
もので出来たなら、同じことです。
世界中の人と本当の親友なら、どう振舞うか?

ワクワクだけを選んで下さい。

この段階で、かなりの引き寄せの循環を感じていると思います。

その引き寄せを自分自身が意図して起こしているということを実感されると思います。

そうなってくると、あらゆるもの全て自分が創っていたという事が、現象面から体感として理解されていると思います。

全ては単なる自分の思い込み、見方次第だった。

その思い込みの強さを利用して、本来は全ての価値は同じ(=価値はない)なのですが、「ワクワクするもの」という自分のフィルターを通して、思い込みという強い力で価値を与えたものだけを見ていると、見事にそういった同質のものが次々やってくる。(創っている)

全ては自分が見たいように、見ていただけ。
でもあまりに(恐怖や不安、怒りから来る)思考に偏り過ぎて、感じていなかったから忘れていただけ。

思考というフィルターを使った生き方を例えるなら

世界に一本だけの木があり、その木になる実だけが頼りの生き方。
その木は年々弱ってきているし、取れる実もどんどん減ってきている。
どうするか?
取る実の量を減らすか?
食べる実の量を減らすか?
実をいかに保存するか?
一本の目に見える木だけにフォーカスする生き方。

ワクワクを感じるというフィルターを使った生き方を例えるなら

木は今、世界に一本しかないかもしれない。
しかし、地面の下には無数の種があり、今見えていないだけでどんどん成長している。
しかもその種は、自分の喜びのみを養分として育つ。
さあ、どんどん自分が喜ぶ事をしていこう!

その違いだけです。

思考を否定している訳でもなく、情を否定している訳でもない。
愛や信頼も仲間に入れてあげてほしい。

都度、自分が心地いい生き方をして下さい。

ねばならないは一切ない!

オールOK!
何故なら全部自分の見たいように見ているだけだから。

自分に起こること(起こすこと)全てオールOK!

これが自己愛を満たすということ。

引き算して、引き寄せて、自己愛を満たす。

このサイクルの繰り返しだけ。

さあ、あなた何をしますか???

日々是好日

お疲れ様でした!
長文読んで頂きましてありがとうございます!

大悟

2012年7月12日木曜日

僕が夫婦で世界一周の旅に出る本当の理由


僕が夫婦で世界一周の旅に出る理由は話す人によって何パターンかある。

どれも本当なんだけど理由を出す順番が違う。
話す人の価値観によって浸透しやすいところから入ってしまいがちだ。
まあ最終的には全部本当の理由だからOK。

ここに一つ一つその理由を書くつもりは毛頭ない。
(僕の性格上、必要以上の大言壮語を吐いて
無駄にかっこつけるだろう。
誰も得をしないし、あまりにサブ過ぎる。)

なのでここでは最も肩の力が抜けた時に話す理由を記す。

それは

「あき(妻)の色んな表情を絶好のポジションで見ていたい」

に尽きる。

僕の妻・あきは本当に表情が豊かな人。
顔の筋肉どうなってんの?ってくらい色んな表情を見せてくれる。
感情と表情が必要以上にリンクしているから、
顔を見れば十分過ぎる程何を感じているかわかる。

嬉しかったら、とことん嬉しい顔をしている。見ていてこっちまで嬉しくなる☆
美味しいものを食べたら、とてつもない美味しさをアピールしてくる。
(そこらへんの料理番組を見るよりもしずる感がある)
不味いものを食べたら、シワをいっぱい作って不味さを表現している。
(イメージ↓↓↓)












僕はその表情を見てる時がとても楽しいし面白い。


世界一周において様々な体験をする時、一体どんな表情をするのか?
僕はそれを絶好のポジションで見ていたいのだ。
僕にとってこれ以上の贅沢はないかもしれない。

仮に旅先で人生初のオーロラを見る時があったとしよう、
僕は真っ先にオーロラではなくオーロラを見ているあきの表情を見るだろう。
オーロラは後で見ればいいが、オーロラを初めて見た時のあきの表情はその時だけ。
あきの顔越しにオーロラをイメージ出来れば、僕はOKだ。

二人でご飯を食べている時もたいてい僕の方が早く食べ終わるので
あきがご飯を食べているところを見ることになる。
顔全体の筋肉を使って食べていて、常に視点がどこか一点を凝視している。
これが可愛らしくて(時にコブサイクで)面白くて仕方がない。

僕がケラケラ笑っていると、彼女は憤慨する。

当然だ。
でも笑いは止まらない。
かれこれ出会ってから5年近く経つが相も変わらず笑っている。
どれだけ見ても慣れないし飽きない。

僕がおかしいのか??そうかもしれない。

でも、楽しくて面白くて幸せなのだ。

これが
誰からも褒められないし、誰からも非難されない
僕だけの世界一周の理由。


読んで頂いてありがとうございます。


大悟

2012年6月10日日曜日

day off

ただの僕の休日の話です。何かの気付きとかゼロです。












朝起きて、奥さんと電話して、もっかい寝て、シャワー浴びて、

窓の外の晴れっぷりからの直感の赴くままに

愛車 gios panto に跨って横浜へポタリング。

まずはタイヤに空気入れて、メッセンジャーバッグに財布とタオルだけ入れて

いざ出発!

久しぶりに乗ると怖い。まあぐらつくこと、ぐらつくこと。

乗ってるうちに体の使い方、地面の捉え方を感じれるようになってきて

自転車との会話が始まると最高に気持ちよくなってくる。

ミニベロはガチのロードレーサースタイルじゃなくて

普段着でそのまま乗れるところが自分としてはとても◎

そして徐々にお尻が痛み出す。

往復3時間程で帰って来て、自転車を部屋に置いて

敢えて何も飲まずにシャワーへ。

シャワー上がったところでチューハイを流し込む。

そんで Def Tech の Day Off を聴きながら昼寝。

起きたら近くのとんかつ屋さんへ行って、本読みながら

ビールと4色フライ盛り定食(エビ、豚、ほたて、牡蠣)をほおばる。

古事記って改めて勉強すると面白いですな。

んで、早々に寝る。

あ〜なんて幸せなDay Off〜

読んで頂いてありがとうございます。


大悟

2012年6月8日金曜日

その喜びに用がある。

その言動の根源は何か?

怖れから来ているのか?

喜びから来ているのか?

一見同じ言動でも与える影響と創る状況は全く違う。

いまここにくつろいでいる時、その違いは明確にわかる。

僕は喜びから来るものだけを選ぶ。

その上で自他ともに栄える言動だけを表す。

そう決めた。

読んで頂いてありがとうございます。

大悟

2012年6月7日木曜日

ドラえもんの手

この世の全ては自分も含めて何かしらの通路(パイプ)だとつくづく思う。

ただ、特に人間は思考によってその通路(パイプ)が詰まってしまっている。

思考とは損得感情などのシュミレーションで、
それに従うとどんどん物心ともに貧困になっていく仕組みだ。

本来自分のものなんて何ひとつないのに、
思考によってこれは自分のもの、
これはあの人のものと囲い込みゲームをしている。


思考で損得を考えると躊躇によって流れが滞り、せっかくのあなたの宝物も腐ってしまう。
あなたという通路(パイプ)も腐ってしまう。

そんな気がしてならない。

だからこそ自分は通路(パイプ)で光や喜びを流す存在だと認識すれば、
そういった豊かなチャンスがどんやってくる。

自分の持っているギフトにニーズを感じたら出し惜しみせずにどんどん渡していこう。
あなたを含めたあなたの素晴らしいギフトは喜びの磁力を感じて動きたがっている。
通路であるあなたはそれを流してあげるだけでいいのだ。

ギフトの本質は他のギフトが喜んで通った通路(パイプ)を好んで通りたがるので、
もっともっと素晴らしいギフトが次から次へとやってくる。

これは本当の話。

だからギフトを受け取って流していこう、次から次へ。

これが自他ともに栄える秘訣。

とても簡単な話。

色々な恐れから皆と同じであるという安心感を求めながら
皆と違いたい、少しでも優越感を味わいたいというエゴを持っていることが、
あなた(わたし)の思考をより強くする。

一度今強く握っている拳を開いてみよう。
そこに握っているのは、プライド?恨み?傲慢?虚栄?

握った拳では何も受け取れないし、渡せない。

そして拳を開いた時、そこにあると思っていた”○○”
は実は空だったことに気づくだろう。

おめでとう!

その瞬間あなた(わたし)という通路(パイプ)は見事にまた流れ出す。

さあ、光の指す方へ!!!


読んで頂いてありがとうございます。

大悟

2011年10月25日火曜日

ありがとうノート【完結編】

お待たせしました!

え?待ってない?まあいいや。

前回の続きを書きます。
「ありがとう」の気付きの3段階の話。

ありがとうノートを書いてるとですね、
自然と感謝が沸いてくるなんてのは
僕にとっては嘘っぱちであり、真実です。

ただ、書き始めはいつも
「残り何行?」
「何でこんな事してるんやろ?」
「しかし手痛いわ」
「ネテロは感謝の正拳突き一日1万回とかすげえな」
「30分で1頁やから今日は3頁ぐらいいけるかな?でもしんどいしな~」
「ご飯何食べよかな?」
「あの仕事ああやってこうしよ。」

ってな具合で雑念というか思考の波に飲み込まれています。

しかし、「ありがとう」がある臨界点を超えると感謝が溢れ出す瞬間があります。
それは自分にとって異次元からの贈り物でした。

【第一段階】
「周り(外側)への感謝」

ここは読んでくれてる人も結構想像つきやすいと思います。
まあ、第一段階ですからね。
「ありがとう」を2頁ですから600個ぐらい書いてるとやってきました。

まずこのノート、書いてるシャーペンや鉛筆、それらを作ってくれた人や資源。
日頃お世話になっている人、なってない人、自分の周りにある人、物、環境へと
自分の「外側」へと感謝が広がっていきます。
そうなると、「ありがとう」を書きながら自然と自分の口で「ありがとう」と言っています。
結構気持ちいい状態です。
でも手は痛いです。

【第二段階】
「自分(内側)への感謝」

「ありがとう」と言いながら「ありがとう」を書き続けていると次なる段階がやって来ます。
それが「自分感謝」です。
これは28頁でしたから、合計約8,400個ありがとうを書いた時でした。

ここからの第二段階、第三段階の気付きは僕の感性での気付きなので、興味があれば読んで下さい。
理解が欲しくて書いてるわけではなく、こればかりは体感しないとわからないと思います。
同じ体感をした人に向けて書きます。
ただ、共有出来るならばこの上なく幸甚です。

自分への感謝は
まず、そもそも「自分」がいるからこそ感謝が出来る、感謝が存在するという自覚からやって来ます。
だから自分の存在は当たり前ではない、自分に感謝しよう、それが何においても一番にすることだと感じるのです。
そして自分を抱きしめます。
(物理的に、両手で逆の肩を優しく包みます。そうしたい衝動がやってくるのです。自分で自分をハグしてみると
結構自分の手があったかい事に気付きます。)
これは自分に対しての「ありがとう」です。

自分に対して「ありがとう」を捧げます。
今まで「自分」批判ばっかで否定して、不安がらせてごめんなさい。
勝手に比べてな。

「ありがとう」
自分が自分を信じて感謝するよ。
安心してな、もう離せへん。

自分へのありがとうが才能を開く。

自分の存在をとてつもなく愛おしく、そして心強く感じます。

そして、今まで自分が書き続けていた「ありがとう」が
全て自分に向けられていることに気が付きます。
これを祝福と言わず、何を祝福というのでしょうか。

それに対して僕はまた言います。

「ありがとう。」

【第三段階】
「ありがとうとの一体化」

「ありがとう」と言いながら「ありがとう」を自分の外側、内側に
向けて書いているとある”音”に気が付きます。
この気付きは48頁「ありがとう」を書いた時なので、ありがとうを
合計約14,400個書いた時でした。

その音は自分が字を書いている時に出ている微かな”音”なのです。
「シャ、シャ、シャーシャ、シャ」
その日は家の机で、静かな環境で書いていました。
今まで音楽を聞きながらや、カフェで書いていたりしたので
その環境ではこの”音”は絶対に聞き取れませんでした。

その”音”とてつもなく心地いいのです。
いつの間にか僕はその”音”が聞きたくて「ありがとう」を書くようになっていました。

それをずっと続けていると不思議な事が起こります。
字を書く”音”自体がいつしか「ありがとう」と聞こえ出したのです。
字を書く”音”で「ありがとう」と奏でるとでもいいましょうか。

自分で書きながら同時にその”音”で受け取るという状況です。
「ありがとう」という字を書くと同時に「ありがとう」という文字が
生まれてその文字に感謝されているように感じる。

そして、今まで書いた「ありがとう」が常に存在して全てと共鳴している凄いパワーを感じるのです。
僕はマインドではなく「ありがとう」という音と一体化していきます。
それで僕はその音に奏でられるまま、「ありがとうノート」を最後まで奏で上げました。
一日で14頁書ききったのです。
今までの僕のペースではそれは文字通り神がかったスピードと量でした。

『ありがとうは書くものではなく、奏でるものである』

以上、まとめるとありがとうノートを一冊書いたことで
①自分の外側への感謝の拡張
②自分の内側の自分自身の存在への感謝
③感謝との一体化、感謝の発信、受信の同時進行

という3つの段階の気付きがありました。

「ありがとうノート」
また書くかもしれないし、もう書かないかもしれない。

「ありがとう」

さて、読んで頂いてありがとうございます。

大悟

2011年10月24日月曜日

ありがとうノート

ありがとうノートって聞いたことありますか?

よくあるのが、
その日感じた「ありがとう」をノートに
記録していこうっていうやつです。

○○さんが□□してくれた⇒ありがとう
雨が降って花に水やりしなくて済んだ⇒ありがとう

てな具合です。
ノートを振り返るとこの世は感謝だらけ☆
いや~実に素晴らしいですね。

私も何度か試みたことがありますが
まあ一週間もすればしなくなります。
続きません。
とてもめんどくさくなるのです。
そして都合よく僕の記憶と意識から消えいってくれます。

今回のブログの「ありがとうノート」は
私が初めて「一冊丸々」達成したノートです。
この「一冊丸々」がポイントです。

これはその日感じた「ありがとう」を書いてノートを埋めていこうという
ロマンチックなものではございません。

ノート一冊全部「ありがとう」の文字で全て埋め尽くすのです。

これは僕が敬愛する須藤元気さんが著書の中で

”ノートを一冊買ってきて、
「一冊を全部『ありがとう』 で埋めたら、絶対に何かいいことがある」
と思いながら、 それを実行したこともある。
すると書き終わった二日後、CMの契約が一本決まり本当に驚いたものだ。”

これを実践してみました。
しかし、言うは易し、行うは難し。

取りあえず、やってみたことを数値だけで見ますと

【ノートのスペック】
セミB5ノート(30行、30枚(60頁))
会社にあった普通のコ○ヨのノートです。

【時間軸】
1頁目を埋めたのが2011年2月6日(日)
60頁目を埋めたのが2011年10月23日(日)
(9か月強)

【文字数】
1行当たり書ける「ありがとう」約10個×30行×60頁
=約18,000ありがとう

1頁を書き終わるのにだいたい30分。
(但し手のコンディションがベストの時、
書き続けると手の甲が悲鳴を上げます)

ここまで書くと60頁やったら1日30分で毎日書いたら、
2か月で終わるやんって思う方もいらっしゃるでしょう。
勿論そうですが、上述の通りだいたい1週間で飽きる人間なんで。
それが出来たら真剣ゼミの漫画の主人公的な学園生活を送っていたはずです。
ええ、僕の学園生活は真逆でした。

まあ、僕の学園生活と数値的なことはもういいでしょう。
散々書いて何が言いたかったかというと、
「ノート1冊ありがとうで埋めるのはかなりしんどい。」
ってことだけです。

前段が長くなりました。
実際に書いていく中で「ありがとう」への気付きが3段階ありましたので
そちらを書くのが今回の目的です。
そしてその気付きのお陰で僕はありがとうノートを書き切ることが出来たのです。

おっと!しかしやれやれどうやら、今日はお別れの時間が来てしまったようです。

この続きは次回「ありがとうノート【完結編】」でお会いしましょう。

今現在まだCMの契約は決まっていません。

読んで頂いてありがとうございます。

大悟

2011年10月17日月曜日

いつどこ?いまここ!

















さて、質問です。
あなたは「いつ」「どこ」にいますか?

ん?質問の意味がわからない?

では、自分の胸の真ん中のちょっと骨の出っ張った
ところを指で触ってみてください。

ね?

えっ?何が?

あなたは、「いま」まさに「ここ」にいます。

いやいや、そんなん当たり前やんて言われたらその通りなんですが。

その”当たり前”ちゃんと意識してた?
頭ん中で過去のこと、未来のこと考えてなかった?
ここじゃないどっか行ってなかった?

これ実はかなり大事なことです。

常に「今」「ここ」にしかいないのに(いれないのに)
ともすれば過去を悔やみ、怒り、未来を怖れている。
そして、自分を消耗している。

過ぎ去ったもの、未だ来ないものに心奪われて勝手にやきもきしている。

いや~傍から見てると滑稽で笑けますなw

例えば、、、
あの人のあの言葉、態度‥ムカつく!(怒り、後悔)

こーなってあーなったら‥ヤバい!(怖れ、不安)

かくゆう自分も全く同じです。
自分で気付いた時は思いっきり自分を笑いますがw
どっぷり浸かってる時はそれどころじゃない。

でも、頭の中のシュミレーションや回想シーンは実際に起こってもいない。
なんでしょうね、あの時の閉塞感と無力感とわけのわからない恐れ。

本当はこの世は既に完璧で、自分(あなた)は何でも出来て、心から楽しむだけなのに。

だからいまこそ
「いまここスイッチオン!」
と言って胸の切り替えスイッチを押しましょう☆

そしたらね、不思議なことに「感じる」力が冴え渡ってくるんです。
頭で「考える」から、心や体で「感じる」を優先するんです。

この「優先する」がキーワードで、いきなり考えることを止めて
感じるって言っても「考える」を止めようと考えるから余計苦しみます。

目を閉じて耳を澄まして、頭で考えている時は気付かなかったことに気付きます。
部屋の中にいたら、色んな音が聞こえるでしょう。
外にいたら風の感触、陽射の温かさが伝わってくるでしょう。
それらは全て、「いま」「ここ」にあってあなたにメッセージを送ってくれています。
その時、その感覚に委ねるのです。

するとどうでしょう?
自分の世界の「解釈(見方)」が変わっているはずです。
目の前の事実は変わらないかもしれません、しかしさっきよりも穏やかに捉えている自分がいます。

この感覚が「いま」「ここ」です。

幸せは「感じる」ことしかできません。
考えている時はきっと幸せではないのです。

周りと、過去と比較してに優劣をつけて一時的に高揚しても、
それは怖れの中の束の間の幻想です。

感じることを優先しましょう、
そして穏やかな世界の中で本当の自分(あなた)の声を聴きましょう。
その声に従ってみましょう。

すると驚くほど、素敵なことがやって来てくれます。

幸せはいつもあなとともにあります。
感じるか、感じないか?
思い出すか、忘れたままか?

その選択はあなたの自由です。

いまここを感じている自分(あなた)が僕は大好きです。
だって圧倒的にキラキラしてるから。


読んで頂いてありがとうございます。

大悟

2011年3月27日日曜日

セルフイメージ、下から見るか?上から見るか?それとも?


アフリカのある村で一番足の遅い少年が、都会の学校に転校したらどうだろう?
今まで自分は足が遅いと思い込んでいた少年は、都会に来て周りから足が速いとヒーロー状態。

さて、彼自身はどこか変わったのでしょうか?

上記は先日読んだの一節。

彼自身は何も変わっていない、変わったのは彼の「環境」と「評価」。
ただ、それによって彼自身の『セルフイメージ』は180度変わったはず。

さて、この自分のセルフイメージを『誰』が決めるのかが今回のポイント。

僕らは比較の世界に生きていて、周囲の「評価」の中で常に生かされている。
そしてその「評価」が自分自身であると思い込んでいる事が多々ある。

「環境」次第で気まぐれに変わり続けるこの「評価」に対して、
いつまで依存し、翻弄され続けるのか?

何よりもこの世でたった一人の自分の価値を自分が認めてあげないで、
一番に愛してあげないで、誰が愛してくれるのか?

「人からの評価で作られた自分」を手放し、
僕は今この瞬間から「自分で自分として生きる」と決めた。

ここに宣言する。

「僕は感謝の表現者、伝達者として愛に従って生きる。」




以下、もしもこの決意が揺るいだ時の為の自分用にメモ。

僕は前職で期待に胡坐をかき、周囲の方々に本当に迷惑をかけ、
その場しのぎの嘘で逃げては自分を責めての繰り返しでもがき、苦しんでいた。
今思っても必要以上に自分で自分を苦しめ、
どこかに自分はダメだという妄想が常にある辛い日々。

その状態の僕に「自分で自分を定義しよう!」と語りかけても、
何も変われないし、むしろ余計にどうしていいかわからず辛くなるだけだっただろう。

縁あって今の仕事、環境に導かれ
現在運良くありがたいことに周囲の方々に幾ばくかの期待、
評価を頂きながら生きている。

この「期待」や「評価」というものはビックリする程、気持ちの良いもの。


期待に胡坐をかかないように、同じ過ちを繰り返さないようにと
一生懸命やっていた僕に気付くと前職では考えられなかった様な期待や評価を頂いていた。

これに気付くと、いつの間にか評価の為の最短距離の思考、行動に変わり、
もっと、もっとと評価の中毒症状になっていく。
評価を維持したい、もっと評価を貰いたい。
どれだけ評価をされても乾きは満たされない。

そして評価は当然相対的なものであるから、周りの人が気になって仕方がない。
どんどん本質を完全に外した行動、思考状態になっていく。
バランスを欠いてしまう。

そのことに気が付けたのは、
「評価」が本当に一瞬にしてオセロのように変わっていくことを目の当たりにした時。

自分の求めていたものの「危うさ」と「脆さ」。

自分の本当に大切なものをいつの間にか忘れて、
思い出せなくなって失くして、自分自身も何だかわからないままに
ただ惰性で周りからの影響のままに流され続ける恐怖。

そして何よりも
本当にありたい自分に自分を定義するという決意と喜びが湧き上がる。

この決意に至る為に僕は
評価で自分を苦しめ、それを乗り越えて得た評価で自分を失うという経験する。

低い評価の自分では、絶対に辿り着けない。
高い評価の自分で浮かれていると見失う。

もしかすると両方知って、環境の評価から受けるセルフイメージが
高い今だからこそ言えるのかもしれない。

なら手放すのは「今」しかない。

「今」だからこそ言える。

「低い評価による」セルフイメージに苦しみ、
「高い評価による」セルフイメージで踊らされること
虚しいこと何たるや。

今改めて自分に問う、
前と今とで僕自身は変わったのでしょうか?

根本的には同じ人間です。
しかし、生きる姿勢を変えました。

どんなことも自分の責任は自分が持つという覚悟です。
その覚悟を決めてしまえば本当に清々しいですよ。

おめでとう!大悟。
ありがとう!大悟。

さあ、感謝全開でいこうか☆

もし、読んで頂いた方の中に今の自分のセルフイメージを低く持って苦しんでる人がいたら
何かお役に立てるかもしれません。
お役に立てると幸甚です。

2009年8月25日火曜日

私は、私であるもの

一昨日、この言葉を口にした瞬間に下記のことが

一気に入って来たというか、理解した。(思い出した?)
入って来たという表現よりも「自分」という壁が瓦解して、
解放されたという方が正しい。

自分として、この解放感と喜びと理論を伝えたいので書きます。
訳わからんという人は、飛ばしてね。
「私は、私であるもの」

だから私は、全てであり、私は何でも出来るし実現している。
そして、私は何処にでもある。
あの人の中にも、その本でも、あの光でも全て私は、私であるもの。

私は、私であるもの

だから私は私だけと他と区別する概念すらない。
私は無限であり、誰でも何でもあるから
無限の光とエネルギーを引き出せる。

何故なら私は、私であるもの全て。
全てが繋がっていて、いつでもどこでもアクセス出来る。
というか既になっている。逆もまた然り。

すなわち全ては一つ。
一つだから逆とかの概念もない。

まさにONE。

かなり突然で、抽象的な表現ですが
気分としては文字通り解放されてとても清々しい。

全身全霊が喜んでいる感覚です。
無敵。(文字通り敵はいない、全て一つだから)

絵にするとこんな感じ↓













前段としてかつて「情熱の連鎖」ってのを思いついて

例えば

僕は西堀榮三郎さんを尊敬している。

西堀榮三郎さんはアインシュタインの弟子って感じで

私→西堀榮三郎→アインシュタイン→???

と辿っていくと情熱が繫がっていく。

ということは

○○←私←西堀榮三郎←アインシュタイン←???

私はアインシュタイン、西堀榮三郎と受け継いだ情熱(エネルギー)を頂いた者として、
その連鎖を断たずにまだ見ぬ次の○○に繋げなくてはいけない。
という考え方が
「情熱の連鎖」











今まではこの情熱の連鎖の直線が交わることなく、何本か自分で止まっているだけだったんですが、
その線が円になってその円は全て繋がっているでっかい一つの円だったということなんですよ

文字通り、全て繋がっているということ。

突き詰めると、情熱の連鎖は繋げようとしなくても既に、そしてこれからも全て繋がっている。情熱の連鎖だけでなく、全てなんですが。

「私は、私であるもの」で全ては一つで繋がっていることを思い出しました。
全ての繋がりの温かさに感謝。

2009年6月5日金曜日

誕生日革命

誕生日っていいな

何がいいって、やっぱりこの世に生んでくれたお母さん、お父さんへの感謝と今まで自分を育ててくれた全ての人にありがとうと言えるから。
今までは誕生日なんやから祝って貰って当たり前、そこに対する感謝は多少あっても根本的にはもっともっとって思いがあり、更にやっかいなことに誕生日ってやつはどっちかっていうとナーバスになる。

他の人はもっと祝われてるんちゃうか?俺はこんだけか、あの人におめでとうって言ったのに俺ん時は祝われてへんなど、我が我がの貪る姿勢の反動で凹んだりする。全く持って本質がわかっていなかった。

きっかけは大切な人からの

「生まれてきてくれてありがとう」

という言葉。

そこで気付かされたことは
私は生まれてきたのではなく、生んで貰って更に愛情いっぱいで育てて頂いた。
だから誕生日は生んでくれた両親と愛情いっぱいで育ててくれた人々に感謝する日である。
そのことに恥ずかしながら26年目にして気付かせて頂きました。
ありがとう、誕生日があって感謝を伝えられる人がいて本当に良かった。

誕生日は「おめでとう」を集める日から「ありがとう」を届ける日に再定義されました。

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